東海道御油宿の旅籠で働いていた飯盛女の墓が残る豊川市東林寺
愛知県豊川市の東林寺は、東海道御油(ごゆ)宿で働いていた飯盛女たちの墓が残る寺です。
日本史では女性の歴史の記録がとても少ないです。例えば私が好きな戦国時代でも、有名な大名の武将の妻や家族の女性は、詳細がわからない人が多い。墓も同じく複数箇所あったり、墓所の場所がわからないケースもあります。
これが庶民になると特にそうで、江戸時代とはいえ、庶民だった飯盛女が手厚く墓所に葬られるというケースは稀(まれ)ですね。いったい何があったのか?そしてなぜ墓が建てられたのか?早速、東林寺へと行ってみました。
豊川市御油町今斉28
東林寺への行き方を説明します。まずは電車でアクセスする場合は、最寄り駅の名鉄名古屋本線・御油駅から徒歩で向かいます。所要時間は約15分くらいです。次に車でアクセスする方法ですが、東林寺の住所を参考に行ってみるとよいでしょう。
飯盛女たちの墓は東林寺墓所の奥にあります、よく見ると複数並んでいる。墓の戒名(かいみょう)を読むと左から順番に次の通り
- 傾岸渕城信女(俗名・ばい:20歳)
- 傾岳壬城信女(俗名・くに:22歳)
- 傾室池城信女(俗名・たま・25歳)
- 傾山癸城信女(俗名・とよ・19歳)
彼女たちは御油宿東林寺隣の旅籠・大津屋で働いていた飯盛女たち。何があったのか、世をはかなんで集団で入水自殺したといわれています。嘉永元年(1848)9月28日のことです。
墓に掘られた戒名をよく見てみると、全てに【傾】と【城】という字が付いています。これは古代中国から伝わる美人の意味。読みは傾城(けいせい)。
昔、中国のとある国で美女に夢中になった王がいて、政治を顧みなくなり、ついには国を滅ぼしてしまいました。つまり傾城とは、国が傾くほどの美女という意味なんですね。
これは私の感想ですが、この墓を建てた大津屋の主人が、亡くなった女性たちに本当に申し訳ないと思って、せめて戒名だけでも印象に残るように付けたものではと思います。その理由は、普通、飯盛女が亡くなると、穴を掘って土を盛っただけの粗末な墓に葬られるのですが、この4人は菩提寺に葬られ石墓まで建てられたからです。
彼女達が自ら命を経った詳細な理由は歴史に残っていませんが、楽しげに描かれている東海道の旅路にも、このような女性たちがいたことは忘れられませんね。
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