東海道新居宿 | 現存の関所、旅籠、芸者置場が残る宿場
舞坂宿から浜名湖を渡り31番めの宿場町である、静岡県湖西市の新居宿にやってきました!
新居宿でまず行っておきたい施設は新居関所資料館。日本で唯一現存する関所と資料館がセットになっている施設です。
東海道ウォーカーの方は、ここは是非チェックしておくことをオススメします。以前、私が訪れた時のレビュー記事を貼っておきますね。
こちらは現存の旅籠・紀伊国屋資料館。紀州(現在の和歌山県)出身の疋田弥左衛門が開業しました。
現在の建物は明治七年(1874)の泉町大火で建て替えられ、昭和二十四年まで旅籠屋として運営されていました。
現在は資料館になっており、中を見学することができます。
明治後期の建築で大正初期に増築された芸者置屋。太平洋戦争後に閉店し、下宿屋として使われていましたが、再び閉鎖。
平成18年から有志による清掃活動が始められ、現在では資料館、そして湖西市のまちづくり交流館として活用されています。
紀伊国屋資料館近くにある、無人島漂流者の碑。
享保四年(1719)、新居宿泉町筒山五兵衛の船は遭難し、鳥島(東京都青ヶ島村)に漂着。乗組員12人中9人が死亡し、残された3人は21年間鳥島で生き抜き、元文四年(1739)に救出されます。
その後、新居宿に帰ることができ、領主・松平伊豆守と人々の手厚い保護を受け、安静に暮らしましたとさ。その3人のことを伝える石碑です。
新居宿には多い時で3つの本陣がありました。それが弥五助本陣(188坪)、武兵衛本陣(196坪)、八郎兵衛本陣(193坪)です。
現在の信号・泉町周辺に固まっています。
江戸時代の宿場では、公用荷物や公用旅行者のために常に馬100匹、人足100人を用意することが義務付けられていました。
しかし参勤交代の大名が重なるなど交通量が急激に増えた時は、助郷(すけごう)といって、近隣の村々から人馬を寄せ集めて不足を補っていました。
この寄馬跡は集められた人馬のたまり場になっていたところです。
天正十二年(1584)年の長久手合戦で討ち死にした戦国武将・池田恒興の首塚を祀っていた池田神社。
恒興を討ち取った永井直勝が、浜松城での首実検後、懇意にしていた笹瀬弥三郎に頼んで首塚を築き、後にそれが池田神社となりました。
その後、高波や災害で祠は流出し、台風で神社も被害を受けましたが令和元年(2019)に再建されました。
江戸・日本橋からから数えて69里目の一里塚があった場所です。現在は石碑と案内看板が建つのみ。
棒鼻とは宿場のはずれ、端のこと。また籠の棒先のこと。
大名行列が宿場に入る時、ダラダラ隊列が乱れていてはみっともないので、入り口で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったとも言われます。
ところで新居宿の西の棒鼻を見てみると、曲尺手(かねんて)になっている事に気が付きます。
平太郎という鯛焼き屋があるのですが、そこともう1か所が折れ曲がっています。
明応七年(1498)の明応地震以前、浜名湖は淡水湖で、太平洋に浜名橋が架けられていました。
平安時代の浜名橋は長さ167m、幅4m、高さ5mほどであり、浜名橋付近は風光明媚な景勝地(けいしょうち)として知られていました。
災害後、浜名橋の位置もよくわからなくなりましたが、現在石碑の建つ場所にあったのではないかと思われます。
元禄十五年(1702)、今切関所の管理が幕府から吉田藩(愛知県豊橋市)に移された事に伴い、新居宿と周辺の村々も吉田藩領となり、その時新居宿に設置された奉行所です。
設置当初は元新居にあったのが、宝永五年(1708)の新居宿移転により、現在地に移りました。
攻略ポイントと私の感想
今回のコースを電車を使って歩くなら、JR新居駅で降りて散策後も同じ駅というのが良いでしょう。
さて、私の感想ですが新居宿の見どころは3つの現存建物です。
- 新居宿関
- 紀伊国屋(旅籠)
- 小松楼(芸者置屋)
この中、新居宿関と紀伊国屋は有料施設ですが、セット券もあるのでお値打ちに入館できます。
あとボリューム的に舞坂宿とセットで訪れる事によって、遠州灘や浜名湖なども身近に感じることができると思います。