東海道吉田宿 | 池田輝政時代の石垣が残る吉田城と豊川の旧宿場町

東海道吉田宿 | 池田輝政時代の石垣が残る吉田城と豊川の旧宿場町

東海道吉田宿 | 広重の浮世絵に描かれている吉田城と豊川の旧宿場町

 

 

国道1号線と重なった旧東海道を歩いて日本橋より34番めの宿場・吉田宿(愛知県豊橋市)に着きました!

 

 

吉田城も多方面の交通の要所で、東の入り口で浜名湖方面に抜ける多米街道と合流します。

 

 

もくじ

 

 

 

 

 


(吉田城鉄櫓内展示より)まず吉田宿の構造を見てみましょう。

 

 

吉田宿の北には豊川が流れ、それを天然の堀にしている吉田城があります。(紫で表示)

 

 

その周辺には緑色で表示された武家屋敷がありました。

 

 

それらを下から取り囲むように赤線で示した東海道が通っています。

 

 

 

 

 

 

東惣門と常夜灯


吉田宿は東西にある惣門(そうもん:城下町の入り口)から中に入ります。今回は東にある二川宿から来たので、東海道(赤線で表示)から吉田宿へ入るには、東惣門から宿場の中に入ります。

 

 

 

 

 


かつての東惣門があった場所は道路になっているので、道脇に東惣門のミニチュアがあります。

 

 

東惣門の傍らには十二畳の上番所、八畳の下番所、勝手があり門外の西側に駒寄せ場十一間がありました。

 

 

また惣門は朝六ツ(午前6時)〜夜四ツ(午後10時)まで開けられており、これ以外の時間帯は一般の通行は禁止されていました。

 

 

>>東惣門の地図

 

 

 

 

 


東惣門近くでチェックしておきたいものがもう一つあります。それが秋葉山(あきばさん、あきはさん)の常夜灯です。

 

 

秋葉山とは、火防の神である秋葉大権現の事。信仰することによって、火災から守ってくれると信じられていました。

 

 

この常夜灯は文化二年(1805)に東海道と本坂通(姫街道)の分岐に近い、現在の西新町に建立されたものです。

 

 

その後、吉田城跡公園になっている豊橋公園内に移され、平成になってからもともとあった場所に近い現在地に移転されました。

 

 

>>常夜燈の地図

 

 

 

 

 

 


現地案内看板にある古地図。ここにある惣門というのが東惣門で上に向かって本坂通(姫街道)が伸びているのが分かります。

 

 

この古地図に記載してある、常夜灯がもともとあった場所は道路になっています。

 

 

>>秋葉山常夜灯の地図

 

 

 

 

 

 

曲尺手門


常夜燈から宿場内に入り、東海道沿いに西へ進みます。周辺は現在住宅地と商業地。

 

 

すると史跡曲尺手門跡という石碑を見つけました。まず曲尺手の読みは かねんて。折れ曲がった道のことで、ここに吉田城の曲尺手門があったのです。

 

 

>>曲尺手門跡の石碑の地図

 

 

 

 

 

 

大手門と吉田城


次は東海道から1本入った道に吉田城大手門跡という碑を見つけました。大手門とは分かりやすく言うと城でいう玄関口のこと。

 

 

実際にここから北側に進むとかつての吉田城跡・豊橋公園に着きます。

 

 

>>吉田城大手門跡の碑の地図

 

 

 

 

 

吉田城鉄櫓

 


東海道から少し寄り道になりますが、時間と体力に余裕がある人は吉田城も是非チェックしてみてください。

 

 

本丸(城の中心部)に鉄櫓(くろがねやぐら)が再建されていますが、中が無料資料館になっており、吉田城の歴史のほか、東海道吉田宿に関しての詳しい展示があります。

 

 

ちなみにこの吉田城は歌川広重の東海道五十三次にも描かれており、豊橋市のシンボルみたいな場所でもあります。

 

 

>>鉄櫓の詳細と内部レビュー記事

 

 

 

 

 

札木町と田原街道


吉田宿の中心部は札木町付近です。ここには問屋場のほか、本陣、脇本陣などもあり人々の往来も多かったのでしょう。

 

 

 

 

 


路面電車にも札木町という駅があります。

 

 

 

 

 


札木町駅の後ろに田原街道の看板を発見。国道259号線沿いです。

 

 

田原(たはら)とは、現在の田原市のことで渡辺華山で有名な田原城がある場所です。また現在の観光地では伊良湖(いらご)に行くこともできます。

 

 

 

 

 


吉田宿だった豊橋市中心部とその周辺をを歩いてみると、かつて城下町があった頃から続いている地名が多く残っていることが分かります。

 

 

豊橋市は太平洋戦争で空襲に遭っているので、町並みや建物はほとんど残っていませんが、地名や町名はそのまま伝わっています。

 

 

 

 

 


江戸時代に魚市場があった現在の魚町。そこににあるのが豊橋名産・ヤマサのちくわ本店。

 

 

 

 

 

ブラックサンダー

 


豊橋市中心部には路面電車が走っていますが、中にはラッピング車両もあります。

 

 

東海道を歩いていると、信号待ちやら史跡の写真撮ったりで、いろんな車両に出会いますが、一番インパクトが大きかったのがこのブラックサンダーの路面電車です。

 

 

 

 

 


ブラックサンダーとは豊橋市はもちろん、愛知県内でもスーパー、コンビニで1個30円〜で販売しているチョコレートのお菓子。

 

 

有楽製菓が作っているのですが、その工場が豊橋市内にあるのです。

 

 

東海道の宿場でいうと二川宿に近いのですが、同じ豊橋市ということでこの車両を見たら要チェック!ですよ。

 

 

ちなみにお土産用のブラックサンダーは豊橋駅でも購入できます。

 

 

>>ブラックサンダー直売所体験記

 

 

 

 

 

 

本陣跡はうなぎ屋になっていた!


吉田宿には本陣が2軒ありましたが、そのうちのひとつが、丸よという、うなぎ屋になっています。

 

 

本陣(ほんじん)とは、宿場の中でも一番格式が高い宿で、主に参勤交代で行き交う大名が泊まる施設です。

 

 

建物はビルになっており、石碑と看板が本陣跡を偲ばせるのみですが、丸よのうなぎは豊橋でも有名です。

 

 

>>そんな丸よに行ってきた体験レビュー記事

 

 

 

 

 

 

西総門


吉田宿の東の出入り口が東惣門なら、西の出入り口は西総門。ここにもミニチュアが復元されています。ここより外が吉田宿外です。

 

 

かつての吉田宿西惣門は江戸時代、東海道筋の坂下町と上伝馬の間にありました。

 

 

惣門の左側に番所があり、十二畳の上番所、八畳の下番所、四坪の勝手があり、さらに駒寄せの空き地十七坪もあっつあのです。

 

 

ちなみにこの西総門のミニチュアは、延宝二年(1674)に湖西市鷲津の本興寺に移築された、吉田城大手門(湖西市指定文化財)を参考に作られています。

 

 

>>西惣門の地図

 

 

 

 

 

惣門外の高低差

 


西惣門より外に行く時に注意したいポイントがあります。それが高低差。

 

 

西惣門を抜けて東海道を歩こうとすると、下り坂になっています。そのまま真っすぐ進むと豊川に突き当たるのです。

 

 

これは自然地形で、逆に言うと豊川の南にある高台に吉田宿が作られたことを意味します。

 

 

街道巡りをしていて気がつくことは、東海道の宿場のほとんどは高台にあるという事。

 

 

なぜかと言うと、低い土地に宿場を置いた場合、大雨で浸水しやすくなってしまいますし、初期の白須賀宿の様に浜辺近くの沿岸部に宿場を置いていると、地震の津波で流されてしまうからなんですね。

 

 

この高低差にも理由があるのです。

 

 

 

 

 

 

湊神明社


旧東海道沿いにある湊神明社の創建は、白鳳期(661〜83)の頃といわれ、伊勢神宮とも極めて結びつきが強い神社です。

 

 

戦国時代の天文年間(1532〜1555)、東三河を領地とした駿河の今川義元の陣代、太原雪斎により神田の寄進がありました。

 

 

そして義元の息子・氏真は神田十四貫三百五十文を寄進。

 

 

さらに江戸時代になると徳川家光をはじめ、代々の将軍から朱印が寄進されるなど、時の有力者の保護を受けました。

 

 

また隣にある湊築島弁天社は江戸時代の社で、国の登録文化財です。

 

 

>>湊神明社の地図

 

 

 

 

 

 

船町と高札場


かつてこの辺りは四ツ屋(四ツ家)と称され、家が数件しかなく河原同然の地でした。

 

 

そこに近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政の重臣だった、浅井与次右衛門と一門(一族)80名ほどがこの地にやってきて村を作りました。

 

 

その後、天正十八年(1590)に吉田城主・池田輝政に定住を許可され、庄屋役にも命じられ、以後、船町と改めて町を開発していったといわれています。

 

 

吉田にあった吉田湊は三河最大の湊として栄え、伊勢や江戸への航路の起点として重要な場所でした。

 

 

船町は、その吉田湊の舟役を命じられ、地子(税金みたいなもの)免除を受けてもおり、吉田宿の他の町よりも優遇されていました。

 

 

 

 

 


現地看板にあった、江戸時代後期の船町の様子。左手に見えるのは吉田大橋です。

 

 

 

 

 

 

かつての吉田大橋


豊川に橋が架けられたのは鎌倉時代といわれ、当時は今橋と呼ばれていました。それが江戸時代になると吉田大橋という名前に改められ、明治時代に豊橋となります。

 

 

また昭和に国道1号線ができてから、900m上流に移されました。

 

 

現在の豊橋の下流約160mのところにあるトヨバシ遊園の中に旧吉田大橋(旧豊橋)の跡の碑が建立されています。

 

 

>>トヨバシ遊園の地図

 

 

 

 

 


(吉田城鉄櫓内展示より)現在の県道496号線に架かっている豊橋(とよばし)よりも、約160m下流(西)にかつての吉田大橋がありました。

 

 

東海道はそこを通って次の宿場である御油(ごゆ)宿へと向かっていました。

 

 

 

 

 


かつての吉田大橋の場所から、現在の豊橋(とよばし)、そして豊川を望む。

 

 

あの橋を渡って、次の宿場である御油宿を目指します。

 

 

豊川の読みについて。地名である愛知県豊川市は(とよかわ)し。にごりませんが川の名前は(とよがわ)とにごります。

 

 

 

 

 

攻略ポイントと私の感想

今回のコースを電車で歩くなら、豊橋駅から路面電車に乗って東惣門最寄り駅・東八丁で降りましょう。

 

 

そして帰りはトヨバシ遊園からまた豊橋駅に歩いて帰ります。

 

 

さて、今回歩いてみた感想ですが、東海道からは寄り道になりますが、吉田城は要チェックと言っていいほどオススメです。

 

 

その理由は鉄櫓内の展示は東海道ウォーカーには嬉しい内容ですし、城内には当時の石垣や土塁、堀などの遺構がたくさん残っているからです。

 

 

豊橋市街ということでトイレ休憩の公園、コンビニそして飲食店は豊富にあるので助かります。

 

 

また西惣門抜けた後くらいに少し高低差がありますが、地形を楽しめるくらいのもので、街道ウォークに支障はないです。

 

 

 

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