江戸時代前記の東海道池鯉鮒周辺がよく分かる知立古城跡前の看板とは
愛知県知立(ちりゅう)市に知立古城址が公園として残っています。
この場所は戦国時代に知立神社神官の長見氏の城があった場所で、江戸時代には将軍のための御殿があった場所です。
ちなみに前を通る道は旧東海道。
さて、この知立古城址前に江戸時代前記の絵図をプリントした看板が建っています。
この絵図は三井美術館所蔵の大日本五道中図屏風(の一部分)なのですが、よく見てみると現在でも同じ場所があるのです。
ではどんな場所が屏風の古絵図と同じなのか?早速チェックしてみましょう。
知立市西町西11
東(右側)から見てみます。まずは岡崎城。
岡崎城は城下町を通る東海道を曲げまくった岡崎二十七曲がりを特徴的に描いています。
そして矢作川の手前に八町という集落がありますが、ここは八丁(八町)味噌を作っている旧・八丁村です。
矢作川には矢作橋も架けられていますね。
この八橋村は、現在の知立市八ツ橋町。
業平石塔とは、かきつばたの詩で有名な在原業平(ありわらのなりひら)の供養塔で、八ツ橋町五輪にあります。
絵図に記載されている御殿が知立古城址。そして近くにあるのが知立神社です。
ここで注意したいのが旧東海道。絵図にある赤い矢印のカーブ、これは意図的に曲げられた曲尺手(かねんて)と言いますが、このカーブが今でも残っています。
東海道が了運寺(りょうううんじ)に突き当たり、そこから折れています。
絵図と向きは違いますが、現地でもシッカリと確認できるんです。
これは刈谷城。東海道からは刈谷道という街道が分かれ、そのまま刈谷城に向かっています。
尾張国と三河国の境である境川(さかいがわ)。絵図には黒線で描かれています。
中央にある千人つか(戦人塚)とは、永禄三年(1560)の桶狭間合戦で亡くなった戦没者を埋葬した塚で、現在では国指定史跡になり残っています。
その隣にあるのが有松(ありまつ)。
東海道五十三次の40番目の宿場である鳴海(なるみ)宿。
折れ曲がった道は今でも残っています。
こんな感じでよく見てみると絵図と現在では共通点も多くあります。
私の感想ですが、東海道ウオークでも城巡りで知立古城址を訪れた時も、この看板をチェックしておくことをオススメします。
なぜかというと、江戸時代初期と現在のギャップを比べることができるからです。
絵図なので、現在の測量方法で描かれた距離の正確さなどはなく、距離感はあいまいですが、見比べて見ると面白いです。
特に知立市周辺に土地勘がある人が見ると、より楽しめるのではないでしょうか。