佐屋街道岩塚宿 | 中川運河をまたぐ佐屋街道最初の宿場
東海道・宮宿から美濃路と共に北に向かった佐屋街道は、金山駅の西にある道標で美濃路と分かれて西に進みます。
石碑には次のように刻まれてあります。
東 右 なこや 木曽 海道
西 右 宮海道 左なこや道
南 左 さや街道 津しま道
北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中
今回のレビューはこの道標からスタート!
道標から西に進むとまず目に入るのが大きな川。これは名古屋城の西を流れる堀川です。
これは人工の川で、名古屋城が築かれた時に安芸広島の戦国大名・福島正則が開削しました。
堀川というくらいだから、名古屋城の堀代わりの川なのですが、戦がない時は熱田湊から名古屋城下へ物資を運ぶ運河として利用されていた川でもあります。
尾頭橋(おとうばし)と読みます。
地名の由来はいくつかの説がありますが、そのうちのひとつに十二世紀末頃、この周辺に勢力を持っていた豪族・尾頭次郎義次の居城・尾頭城があったので、この地名が付いたとか。
尾頭橋西の交差点で南北に通る県道は、かつての百曲街道(ひゃくまがりかいどう)です。
百曲街道(ひゃくまがりかいどう)とは、慶安二年(1649)、熱田新田の干拓が行われた後、新田の北側に自然にできた道のこと。
尾藤橋西交差点ではまっすぐですが、周辺をぐるっと曲がっています。
佐屋街道沿いに建つ案内板に昭和の頃、路面電車が走っていた事が書かれていました。写真の場所は以下のようになっています。
面影がありますね!名古屋市では人口が急激に増え、交通量と車も多くなり、路面電車では効率が悪くなって市バス等に変わったのでしょう。
ちなみに路面電車といえば、東海道編でレビューした吉田宿(豊橋市)で今でも走っています。
佐屋街道沿い・中川区の海抜。
佐屋街道最初の一里塚は、中川区露橋2丁目の唯然寺(ゆいぜんじ)近くにありました。境内に津島街道(佐屋街道)一里塚を示す石碑が建っています。
佐屋街道沿いの郵便局を見てみると…名古屋五女子郵便局?
これは何と読む?五女子の読み方は?あなたは分かりますか?
正解はごにょし(ごにょうしとも)。
『じょし』ではなく『にょし』なんですね。
この理由は、昔、この地域を治めていた有力者に七人の娘がおり、それぞれ嫁がせた地域に「◯女子村」という村名が付き、そこから◯女子になったという昔話があります。
ちなみに、ににょうしという地名もあります♪
風景に溶け込むように建つ佐屋街道の石碑と案内板。注意しないと見落としそうです。
佐屋街道は中川運河を渡ります。
中川運河とは、名古屋港から中川区の旧国鉄・笹島貨物駅間を結んだ運河。昭和初期から30年代頃まで、名古屋地域で中心的な水上輸送路として活用された運河です。
佐屋街道はまっすぐなものの、街道時代の雰囲気は残っていません。
佐屋街道沿いに豊国通(とよくにどおり)6という、信号交差点があります。
この信号を北にまっすぐ行くと、名古屋市営地下鉄東山線・岩塚駅を経由して、豊臣秀吉の生誕地説がある、中村公園に行くことができます。
戦国時代、大坂城を築いた太閤・豊臣秀吉は、現在の名古屋市出身で、生誕地説が三ヶ所あります。
そのうちのひとつで、有力視されているのが名古屋市中村区の中村公園です。
名古屋市中村区岩塚町に岩塚石橋という信号交差点がありますが、ここから西が、かつての佐屋街道・岩塚宿です。
『岩塚宿です〜!』と言っても、現状は住宅地。本陣とか問屋場の石碑もありません。
かつての岩塚宿は、熱田宿(宮宿)から約7.8kmのところにあり、本陣2、脇本陣ナシ、旅籠7軒の宿場でした。
この周辺が、かつての佐屋街道・岩塚宿という事が分かるのが、この看板くらいでしょうか。
光明寺の前、佐屋街道沿いにあります。
佐屋街道から少し入り込みますが、戦国時代とそれ以前、この地に勢力を持っていた吉田氏の岩塚城跡があります。
現在では遍慶寺(へんきようじ )になっており、入り口の前に岩塚城跡の石碑と側に由来が書かれた案内板があります。
元慶八年(884)創建と考えられている七所神社。岩塚城主・吉田氏も保護した、この地域では古い神社です。
佐屋街道は現在、庄内川の堤防工事の関係で、万場大橋を渡らなければなりませんが、万場大橋の階段付近に七所神社があるので、ここも参拝しておきましょう。
七所神社に残る日本武尊(やまとたける)腰掛岩。
その昔、日本武尊が東征の帰路、伊吹山に向かう途中、ここで渡し船を待っていた時に腰掛けたといわれる岩です。
攻略ポイントと感想
今回のコースを電車を使って歩くなら、金山総合駅で降り、帰りは名古屋市営地東山線・岩塚駅で帰るのがよいでしょう。
私の感想ですが、佐屋街道のここまでのコースは、雰囲気や遺構が残っていないものの、平地で歩きやすく、ポイントごとに見るべきものもあるので、街道ウォーク初心者にオススメだと思います。