美濃路墨俣宿 | 豊臣秀吉出世城の伝説と輪中の集落
起(おこし)宿を後にして濃尾大橋を渡ります。木曽川(きそがわ)を越えてかつての美濃国である現在の岐阜県に入ります。
対岸の岐阜県に渡ると、ここにも渡船場関連の史跡があります。写真は起渡船場石灯台(おこしとせんばいしとうだい)。
明和七年(1770)に建立されたものです。
伝承によれば、竹鼻町伊勢屋の先祖の力士がある夜、起から木曽川を泳いで渡り、堤防に上がろうとすると辺りは真っ暗で道も方角もわからず、大変困りました。
そこで後日、石灯籠と油代として田んぼを二反(約1990m2)寄付したとか。
起宿の定渡船場の対岸にあった渡船場には、金比羅神社が祀られています。ここと定渡船場の間を多くの人が往来していました。
『右いせみち 左おこし鮒渡 寛延三庚午年(1750) 医師溝中』と刻まれた石柱。
これは江戸の御典医(幕府や大名に召し抱えられた医者)が旅の途中、起宿で亡くなり、その医師がお礼として残した路銀(お金)で、この周辺の医者たちが相談して建立したものです。
もとは木曽川から船が上がる場所近くにあったそうですが、現在では個人宅の前に移動され、羽島市歴史・史跡検証委員会の看板が建っています。
美濃路はのどかな真っ直ぐな道になっています。
羽島市立正木小学校前に江戸から九十七里(約388km)の不破一色一里塚跡の石碑と看板があります。
かつては道を挟んで東西に縦横9m、高さ約3mの塚があったそうですが、現在では残っていません。
起宿と墨俣宿の間宿(あいのしゅく)。間宿とは、宿場と宿場の間にあった宿泊施設が無い小休憩所の事。
ちなみに間宿を利用できたのは大名、貴人、高僧などで庶民や駕籠屋などは立場を利用していました。
看板となりに鸞聖人旧跡石碑があります。
珍しい名前の阿遅加(あぢか)神社。
その昔、日本武尊(やまとたける)がこの地を訪れ、土地の人に頂いた水と食べ物が美味しく、『味佳(あじか)』と言ったのが由来です。
ちなみに現在の周辺の地名は足近(あじか)。
阿遅加神社を過ぎてから県道165号線をまっすぐ進み、最初のカーブミラーで右に曲がります。これが美濃路のルート。
すると左手に時計が置いてある、足近小学校の集団登校の集合場所みたいなところがありますが、この周辺が立場(たてば)跡です。
立葉とは、宿場と宿場の間にある、庶民が休憩する場所。茶屋があり軽食の団子や餅などを販売していました。
大名や公家、また幕府要人などは、手前にあった間宿(あいしゅく)で休憩しますが、庶民の旅人や駕籠屋は立場で休憩しました。
美濃路は境川の堤防みたいな場所を通ります。
堤防沿いにも道標を置いてくれているので分かりやすいです♪
江戸から98里(約392km)のところにある、西小熊一里塚跡。
この周辺がかつての東小熊と西小熊の村境で、北の一里塚は東小熊、南の一里塚は西小熊が管理していました。
かつて美濃と尾張の国境だった境川(さかいがわ)。
ここにあったいくつかの川は、天正十四年(1586)の洪水でほぼ、現在の流れになった様です。
長良大橋を渡り大垣市に入ります。
長良橋を渡る時、できれば大垣市に向かって右側の歩道を歩くと良いです。
なぜかという理由ですが、ひとつは橋を渡ると橋の右側に墨俣宿跡に向かう階段があるから。
もうひとつの理由は、豊臣秀吉ゆかりの墨俣一夜城資料館が長良川越しに見えるからです。
墨俣宿に着きました!まずは本陣から。
本陣とは宿場の中で最も格式が高い建物のことで、大名や公家、幕府要人などが宿泊した施設です。
現在は灯籠と石碑が建っています。
こちらは脇本陣跡。脇本陣とは、本陣の次に格式が高い宿泊施設。現在の言葉で言うと『副本陣』、『準本陣』といった感じでしょうか。
脇本陣の建物は現存ではなく、明治二十四年(1891)の濃尾震災で倒壊し、民家として再建されました。週末のみ、地元のまちづくり団体がお土産処として開店しています。
濃尾地震で倒壊を免れた脇本陣の門は、近くの本正寺に移築されています。
脇本陣の門が移築されている本正寺周辺は寺町といい、複数の寺院があります。
そのうちのひとつ、明台寺に残る土岐悪五郎康貞の墓。南北朝時代(1336〜92)に活躍した武将です。
現在の墨俣宿の様子。古い建物もチラホラあります。まっすぐな道路が旧街道を想わせますね。
町中にある社は、石垣が組まれ道路より高い場所にあります。これは大雨や洪水で増水した時、社が水に浸からないための工夫です。
墨俣宿の北側にあるお城みたいな建物は、墨俣一夜城資料館。
戦国時代、尾張の織田信長が美濃(現在の岐阜県南部)を攻める時、家臣だった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に築かせた砦があった場所です。
一般的には何も無かった河原に上流から木材を流し、一晩で柵を組み立て砦にしたことから一夜城という名前が付きました。
しかし最近では、この地には使われなくなった砦みたいな物があり、秀吉が急いで修復して織田の砦にしたとの説もあります。
ともあれ、この様な立派な城ではなく、現在では地元の歴史を伝える資料館になっています。
一夜城資料館の裏側にある豊国神社。豊臣秀吉を祀ってある神社です。
秀吉は百姓から天下人にまでなっており、日本史上、もっとも出世した人物のひとりとして、今では出世の神様として各地で祀られています。
秀吉の生誕地、名古屋市中村区や最初に城主となった滋賀県長浜市にも豊国神社があります。
攻略ポイントと感想
今回紹介したコースは電車駅が近くに無いので、起も墨俣も市バスで集合解散にしたほうが良いです。(私は早朝から歩きましたけど)。
さて、今回のポイントはなんといつても輪中(わじゅう)。
輪中とは、集落(村)を水害から守るために周囲を囲んだ堤防。もしくは堤防で囲まれた集落や、それを守るための水防共同体のこと。
この周辺は濃尾平野で平地が広く、高低差があまりない土地。
それゆえ田んぼも多く、米の収穫高も多かったのですが、常に水害に悩まされた地区でもあります。墨俣宿で石垣が組まれた社がありましたが、やはり水没の危険性のためなんですね。
美濃路ウォークに関して言えば、高低差が少ないので歩きやすかったです。
また江戸時代とは関係無いですが、豊臣秀吉ゆかりの墨俣一夜城資料館は、最上階が展望台になっており、周辺を見渡すには絶景ポイント。
ここで休憩も兼ねて墨俣の歴史について学び、次の大垣宿へ向かいましょう!
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